文化遺産の保存と活用 仕組と実際
はじめに

この本を書くにあたって、以前訪れた兵庫県の丹波篠山にもう一度行ってみたいと思い、初秋に訪れました。この時期しか食べられない栗餅も嬉しかったのですが、お目当ては、集落丸山に泊まって、丹波篠山のまちづくりについてお話を伺うことでした。
集落丸山は、茅葺屋根の古民家が建ち並ぶ地区ですが、過疎化が進み、空き家が目立っていました。そこで、古民家の内部を改修して、地元の方々で運営する宿泊施設として再生させたのです。朝食の食卓は、地元の食材のお惣菜で彩られていました。一般のホテルのようなサービスとは違い、故郷の実家に帰ったような温かい気持ちになりました。
この取組のおかげで、集落に戻って来た家族や他の地域から移住してくる人もあり、過疎化は止まったとのことでした。「古民家」という文化遺産を整備することによって、地元の人々が誇りを持てる地域となり、外から来る人々にとっても心の安らぎを提供できるところになっているのです。集落丸山は、政府の「未来投資戦略2017」に取り上げられた「古民家等の歴史的資源を上質な宿泊施設等に改修し、観光まちづくりの核として面的に再生・活用する取組」のモデルケースでもあります。
日本には、伝世の文化があり、そのことが我が国の社会や経済の発展の基礎として、意識されることはなくとも大きな役割を果たしてきました。文化や文化遺産の力が、今ほど注目された時代はかつてなかったと思います。まちづくり、観光、産業振興などさまざまな面で、文化遺産の活用が進められようとしていますが、その基盤には、日本やそれぞれの地域の歴史や文化、生活を伝えている文化遺産そのものの魅力と、それを大切に守り伝えてきた人々の取組があることを忘れてはなりません。
私たちの役目は、この文化を発展させながら次の時代へとバトンタッチすることです。文化遺産は、これからの社会を形成していく新しい文化の源泉ともなるものです。ですから、どこの国においても、自国の文化遺産を保護することは、重要な政策の一つとなっています。
本書では、我が国の文化遺産の保護制度やその運用の実際と課題について述べ、文化遺産を核としたまちづくり、文化遺産保護に係る国際協力、災害から文化遺産を守る取組などについて紹介していきます。その際、制度面については、文化財保護法を中心に、その背景や過去から最新状況までの流れを踏まえた全体理解に立つ記述を心がけました。同時に近年の大きな情勢変化に照らして、関連するさまざまな他法令の動向やそれら相互の関係が俯瞰的につかめるように努めました。青山学院大学及び昭和音楽大学大学院で文化遺産保護について行ってきた講義での学生との意見交換や、筆者が勤務又は居住していた地域(埼玉県、仙台市、静岡県掛川市、石川県金沢市)を中心にいくつかの事例も記載しました。
行政関係者、文化遺産保護活動に携わっている方々にとどまらず、研究者、学生、社会人など関心を持っていただける幅広い層を読者に想定した構成、記述にしておりますが、日々刻々、制度と実践の間の調整や施策展開を迫られる地方公共団体における文化遺産保護行政の充実にも役立つことを切に願っています。
なお、執筆に際しては、事実関係の確認はもとより正確な記述に最大限の努力をしてはおりますが、思わぬ誤りや思い違いなどもないとは言い切れませんので、読者の方々からのご指摘等いただければ幸いです。

注:「文化財」と「文化遺産」の用語について
本書を書くにあたり、「文化財」(cultural property)を使うか、「文化遺産」(cultural heritage)を使うか、迷いました。
「文化財」は文化財保護法によって定義されている用語です。文化財保護法は、有形文化財、無形文化財、民俗文化財、記念物、文化的景観、伝統的建造物群の六種類の文化財のうち価値の高いものを指定するなどして保護する仕組です。指定などを受けたものだけを「文化財」と呼ぶというように思っている人もあるようですが、それは誤解です。指定などにかかわらず「文化財」と呼ぶことができます。また、現実には、その性質や時代などからこの法律の定義に収まりきらない文化的な所産もあるはずで、本書では、そういったものも含めて考えたいので、「文化遺産」という用語も用いることにしました。
言葉のニュアンスとしては、「財」は、経済学では人間の物質的、精神的欲望を満たすものであり、辞書には人間の生活にとって有用な物とも書かれており、時間的には止まっていて、変容をあまり念頭においていないようにも受け取れます。「遺産」は、前代の人々が残した業績や財産などのことを意味し、後世へ伝えていくもの、後世の人々が大切にそれをいかしていくものという意味合いを感じとることができる言葉です。人々の生活とともに変容していくことを本質とする無形の文化的所産やまち並みなどを表現する際には、「文化財」よりも「文化遺産」のほうがしっくりくるようにも感じられます。
なお、ユネスコは、一九七二年の世界遺産条約を契機としてcultural propertyからcultural heritageへと進化させており(「文化と国際法」佐藤禎一著、玉川大学出版部)、そうした国際的な動向も参考としました。
したがって、本書では、文化財保護法等法律などに基づく場合は、「文化財」を用い、それ以外、広く文化的な所産について述べる場合は、「文化遺産」を用いています。