ブレインサイエンス・レビュー2016
はじめに

廣川 信隆
(公財)ブレインサイエンス振興財団 理事長


 いま、世界は大きく動いている。あるいは揺らいでいるといったほうがよいかもしれない。
 東西冷戦というイデオロギーの対立がコミュニズムの崩壊による終焉を迎えた後、宗教、人種間の対立が顕在化し、イスラム国という狂信的集団によるテロ攻撃や、難民の大移動により世界は大きく混乱している。日本は、このような激動から少し距離を置いているが、今後より深くかかわっていかざるを得ないと推察される。これらの混乱は、すべからく、ヒトの脳に由来する、思想、情動、偏見等と深くかかわっている。
 脳研究は大きく動いている。米国では、平成25年にブレイン・イニシアティブ(Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies;BRAIN)が始まり、EUでは、それに先立ちEUフラッグシッププロジェクトとしてEUヒューマン・ブレイン・プロジェクトが始動し、10年計画で巨額の研究費のもと大型プロジェクトが走り始めている。それに比して日本の政府の動きは、明らかに遅れており、日本が脳科学の国際的な発展にどう貢献していくかが問われている。中国もこの国際的潮流に敏感に反応し、昨年の6月に蘇州のCold Spring Harbor Asai で脳研究のとるべき方向性を議論する研究者と政策決定者を含めた国際カンファランスが開かれた。今年は、伊勢志摩で日本が主宰するサミットが開催されるが、それに先立ちGサイエンスという世界各国からの科学者の代表たちによる国際会議が東京で開かれ、国際的に注目を集める科学分野の政策提言がまとめられることになった。今年は、3つの分野のひとつとして“脳と心”が選ばれ、私がその議長を務めることになった。脳科学の現状、将来展望と、その社会とのつながりを含めサミットに集まる各国首脳に適正に伝えるべく努力するつもりである。
 このブレインサイエンスレビューにみられるように、脳科学は、大きく分けて、.縫紂璽蹈鵝▲哀螢△諒子・細胞レベルの研究、脳の発生・発達の研究、システムとしての神経回路と行動レベルの研究、で梢牲仄栖気慮Φ罎吠かれていた。しかし現在この垣根は、ますます低くなり、これらを縦断するような研究が発展してきている。さらに最近、疾患の研究が,らをまたぐかたちで発展している傾向がみられる。
 今回も受賞者の方々の総説、いずれもがきわめて読みごたえのあるものである。その内容は、以下のごとくである。
1. 稲垣 彰氏(pp.93-112)は、カルシウムチャネルの新たな薬理学的制御について、神経特異的なカルシウムチャネルに対する薬理学的制御の最近の知見を含め紹介している。
2. 奥野浩行氏(pp.125-148)は、神経活動依存的な遺伝子発現とその機能に焦点をあて、特にArc(別名Arg3.1)という活動依存的遺伝子について、最新の知見や今後の展望を交えて紹介している。
3. 上田(石原)奈津実氏(pp.31-48)は、大脳新皮質初代培養神経細胞を用いた神経突起(軸索・樹状突起)形成の定量解析と大脳新皮質体性感覚野第/形悗凌牲从挧Δ梁仟θ藜舛悗稜称妥蠎佑魏鮴呂掘⊃牲亞萋旭預古Ca2+流入の下流で生じるアクチン再編成と神経突起伸展との関係を明らかにし、神経突起伸展過程におけるセプチンと微小管との相互作用を紹介している。
4. 岸 雄介氏(pp.213-236)は、神経発生についてグローバルなクロマチン構造の変化、繰り返し配列や遺伝子構造などゲノム情報の違い、スプライシングパターンの制御や翻訳活性の制御等による遺伝子発現パターンの制御に焦点をあて、近年明らかになってきた興味深い現象を紹介している。
5. 土居雅夫氏(pp.281-297)は、生体リズムの異常と疾患に関する最近の知見を概説し、中枢リズム調整薬の開発に向け、SCN局在型オーファン受容体は生体リズム調節能を持ち、その分子機能解析の結果から、Gzと呼ばれる特殊なGたんぱく質とカップルすることについて紹介し、Gz共役型分子を標的とした創薬の可能性にも言及している。
6. 林 崇氏(pp.317-338)は、グルタミン酸受容体1分子の局在とtraffickingの制御を継時的にライブイメージングすることにより解析し、中枢神経系の興奮性シナプスにおけるリン酸化やパルミトイル化などのたんぱく質翻訳後修飾に伴うtrafficking制御が起こる分子機構、さらに、精神疾患原因遺伝子による興奮性シナプスの制御機構の解明をめざす1分子イメージング法を応用した研究について紹介している。
7. 榎本和生氏(pp.113-124)は、脳機能は、ニューロンネットワークの組織化と脱組織化の平衡状態のうえに成立するとし、ニューロン受容領域の組織化について、周辺ニューロンや組織との相互作用を介するメカニズムを中心に樹状突起の可塑的構造変化ついても紹介している。
8. 金子奈穂子氏(pp.195-212)は、生理的な環境下における新生ニューロン−アストロサイトの相互作用と、脳梗塞後のニューロン再生過程における新生ニューロンと活性化アストロサイトとの相互作用について、最新の研究成果を紹介している。
9. 坂口昌徳氏(pp.263-279)は、神経再生について、未分化な神経細胞をいかに脳内の狙った場所で効率よく分化誘導し成熟させ、さらに既存の神経回路に効率よく組み込ませ、機能的な再生を導くか、という点についての研究を紹介している。
10. 近藤 誠氏(pp.237-262)は、恐怖記憶の機序と5-HT3受容体の関連について、恐怖記憶を制御する分子機構、運動が引き起こす情動や記憶機能の変化に注目し、最新の研究を紹介し、うつ病治療薬の可能性についても言及している。
11. 伊丹千晶氏(pp.49-72)は、齧歯類の体性感覚野において、臨界期可塑性のメカニズムについて臨界期前後に起こる可塑性の変化に焦点を絞り最新の研究を紹介している。
12. 中村仁洋氏(pp.299-316)は、無意識的言語認知おける処理深度とその脳内機構についてサブリミナル条件で提示された言語情報の脳内処理についての先行研究を概観し、高密度脳波計測装置を用いて行った最新の事象関連電位研究を紹介している。
13. 加藤忠史氏(pp.173-193)は、双極性障害の神経生物学的研究基盤の探索と題して、双極性障害の原因解明に向けた最新の研究を特にミトコンドリア機能障害、新しいゲノム研究の方向性、創薬研究について詳しく紹介し、今後の展望について言及している。
14. 相澤秀紀氏(pp.15-30)は、手綱核過剰活性化という脳の局所興奮が睡眠障害にはたす役割について紹介し、うつ病モデルにおける睡眠障害メカニズムおよびグルタミン酸輸送体の薬理学的活性化による抗うつ薬の新たな創薬標的についても言及している。
15. 伊東大介氏(pp.73-92)は、ALSについて近年同定された原因遺伝子optineurin、ubiquilin2、C9orf72 6塩基反復配列変異に注目し、たんぱく質品質とRNA品質管理機構のクロストークを中心に明らかになった分子病態を紹介している。
16. 香月博志氏(pp.149-172)は、ナルコレプシーの発症に至る病態生理学的機序についてはオレキシンニューロンの性質、特にその選択的変性が誘導される要因について注目し、最新の研究成果を概説している。
 以上のように、今年の総説も、分子・細胞、発生・発達、システムとしての神経回路・行動、脳疾患にわたる脳科学の広い分野をカバーしながら、それぞれ新しい方向性を紹介するもので、日本の脳科学研究の広がりと先進性を見事に反映したものとなっている。それぞれの著者のご尽力に感謝したい。このブレインサイエンスレビューにみられるように、脳科学は、多様であり、また新しい展開はその多様性のなかから生まれるといってよい。脳科学の支援体制は、全体をみわたし、多様な研究を支える幅の広いものであるべきであると痛感し、ブレインサイエンス振興財団の重要な役割についてのご理解とご支援をお願いしたい。