ブレインサイエンス・レビュー2015
はじめに

廣川 信隆
(公財)ブレインサイエンス振興財団 理事長

 今、脳研究は大きく動いている。米国では、平成25年にブレイン・イニシアティブ(略称BRAIN:Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies)が始まり、EUでは、それに先立ちEUフラッグシッププロジェクトとしてEUヒューマン・ブレイン・プロジェクトが始動し、10年計画で巨額の研究費のもと、大型プロジェクトが走り始めている。それに比して日本の政府の動きは、明らかに遅れており、日本が脳科学の国際的な発展にどう貢献していくかが問われている。中国もこの国際的潮流に敏感に反応し、今年の6月に蘇州のCold Spring Harbor Asiaで脳研究のとるべき方向性を議論する研究者と政策決定者を含めた国際カンファランスが開かれようとしている。このブレインサイエンスレビューにみられるように、脳科学は、大きく分けて、・ ニューロン、グリアの分子・細胞レベルの研究、・ 脳の発生・発達の研究、・ システムとしての神経回路と行動レベルの研究、・ 脳神経疾患の研究、に分かれていた。しかし現在この垣根はますます低くなり、これらを縦断するような研究が発展してきている。さらに最近、疾患の研究が・から・をまたぐかたちで発展している傾向がみられる。
 今回も塚原賞のお二人をはじめ、研究助成の受賞者の方々の総説、いずれもがきわめて読みごたえのあるものである。その内容を概説すると以下のごとくである。
 
 太田悦朗氏(pp.15-34)は、iPS細胞を用いたパーキンソン病の病態解析と題して、日本の優性遺伝PD家系から同定されたPD原因分子Leucine-Rich Repeat Kinase 2(LRRK2)が、どのようにPDを引き起こすのか、その発症機構に関して、最近の話題にふれながら概説するとともに、現在著者らが進めているPD患者のiPS細胞を用いた病態解析について紹介している。
 神谷之康氏(pp.35-56)は、脳情報デコーディングと題して、機能的磁気共鳴画像法(functional magnetic resonance imaging;fMRI)を用いた脳情報デコーディングの研究のなかでも技術の進歩が著しい、視覚情報のデコーディングに関する研究を中心に紹介し、筆者のグループによるデコーディング手法の開発過程をたどりながら、この技術の方法論と展望について議論している。
 河原行郎氏(pp.57-78)は、神経変性疾患関連たんぱく質TDP-43の断片化機構とその生理的意義と題して自らの研究を中心にして紹介している。2006年にTDP-43と呼ばれる43kDaのRNA結合たんぱく質が、ALSと前頭側頭葉変性症(FTLD)と呼ばれる痴呆性疾患における変性ニューロン中の細胞質封入体に、ユビキチン化、異常リン酸化、断片化などの修飾を受けて蓄積していることが発見された。この蓄積したTDP-43は、完全長のものやいくつかの稀なC末端断片(CTF)に加え、約25kDaのC末端断片(CTF25)が特徴的に蓄積している。しかし現状では、CTF25の正確な切断点、切断を担う責任酵素は確定しておらず、さらに断片化が生じる生理的意義についても未解決である。この章では、CTF25の切断点と切断酵素を同定し、さらにTDP-43クリアランスにおける断片化の生理的意義の解明を目的とした著者らの研究を紹介している。
 瓦井俊孝氏(pp.79-90)は、新規運動ニューロン病遺伝子TFGの機能解析と題して、TFGの機能異常によりALS関連たんぱく質のFUS、TDP-43の細胞内局在が変化することを示した自らの研究を紹介している。また、この影響を受けるたんぱく質はほかにも数多く存在するはずであり、これまで解明した運動ニューロンたんぱく質のトランスクリプトームにはない、新規のカスケードが解明できる可能性があること、また、変異によりTFG自体の凝集proteinopathyも予想されており、凝集阻害が治療法開発につながることも言及している。
 合田圭介氏(pp.91-107)は、高速・高分解能ブレインイメージングに向けた技術革新と題して、これまでさまざまな脳イメージング技術が開発され、多くの脳機能を明らかにしてきた背景のもと、より複雑な脳活動を詳細にモニタリングし、高次の脳活動を包括的に調べるためには、従来のイメージングにおける感度と速度の根本的なトレード・オフを克服し、脳イメージング技術の底上げを行う必要があることを示し著者らの新たに開発した高速イメージング手法がどのようにして技術的障壁を突破し、どのような応用に結びついていったかを解説している。
 合田裕紀子氏(pp.109-124)は、恒常的なシナプス強度可塑性の時空間制御メカニズムと題して、これまでに著者らのグループが行った海馬の培養細胞を用い電気生理の手法と並行して各神経細胞に分布するシナプス前終末およびシナプス後部を蛍光イメージングで観測し、近隣シナプスの関連性を追究した研究により得られた新しい知見を紹介している。さらにシナプス強度調整機能、シナプス可塑性の不調は統合失調症や自閉症、アルツハイマー病などの要因にもかかわるとされており、シナプスによる神経回路の可塑的変化の解析は脳機能のメカニズムに新たな洞察を加え、神経疾患の発症機構解明につながると期待している。
 小林克典氏(pp.125-143)は、抗うつ作用を担う海馬神経可塑性の解析と題して、筆者らの長年の海馬のシナプス伝達(synaptic transmission)とその可塑性(plasticity)についての生理学的な解析の背景を基にした新たな方向性を紹介している。海馬は記憶などの認知機能に重要な役割を果たすことでよく知られているが、精神疾患(psychiatric disorder)の病態生理学的基盤や治療薬の作用との関連でも注目されている。近年、海馬の歯状回(dentate gyrus)と呼ばれる部位が抗うつ薬の作用部位として重要視されている。しかし、抗うつ薬によって歯状回の機能がいかに変化するかについての詳細な生理学的解析がなされていなかった。近年、著者は、セロトニンのシナプス修飾作用の安定化や神経脱成熟など、抗うつ薬の作用機序に関する新仮説を提唱しその研究を中心に、抗うつ薬の作用基盤としての海馬神経系の可塑的変化について概説している。
 新明洋平氏(pp.145-163)は、神経回路形成における軸索ガイダンス分子の役割と題して、軸索ガイダンス機構に着目して、脳や脊髄における神経回路がどのような仕組みで形成されるのかを概説し、特に主要な軸索ガイダンス分子であるNetrin、Semaphorin、Slit、Ephrinの役割について紹介するとともに、著者らが発見した軸索ガイダンス分子Draxinの研究結果を報告している。
 竹内勇一氏(pp.165-189)は、右利きと左利きの脳内制御機構と題して、さまざまな動物でゲノム情報が整備されつつあり、現代の生理学的・分子生物学的手法は、非モデル動物にも十分適用できるという背景のもとに近年の、脳の適応進化・淘汰に関する研究について脳機能の統合的理解を推し進めるうえで、明瞭な表現型を示す非モデル動物を用いた研究がもたらす例として、著者らの魚類の左右性行動(右利き・左利き)に関する階層縦断型研究について書き進めている。
 村越秀治氏(pp.191-210)は、シナプス内シグナル分子動態イメージングと題して、2光子励起蛍光顕微鏡や2光子蛍光寿命イメージング顕微鏡法(2-photon fluorescence lifetime microscopy:2pFLIM)を用いた蛍光共鳴エネルギー移動(Fluorescence resonance energy transfer:FRET)計測と優れたプローブ(FRETセンサー)の使用を併用し、スパインや樹状突起内部で起こるさまざまな生化学反応を画像化する研究の一環として著者らの海馬組織中のスパイン内で低分子量Gたんぱく質Rho GTPaseの活性化の可視化とシナプス可塑性の関連についての研究成果を紹介している。
 吉種 光氏(pp.211-232)は、体内時計が生み出す約24時間周期のリズムとその原理と題して、外界からの時刻情報に頼らずに自律的に振動して安定に時を刻む「発振系」、体内で生み出されるリズムを生息環境のダイナミックなリズムと完全に同調させるための「入力系」、最後に、自律的に振動して環境と同期した体内リズムは、その時刻情報を多彩な生体機能リズムへと変換する「出力系」の入力・発振・出力という三大要素について著者らがこれまで取り組んできた研究成果を中心に紹介している。
 渡瀬 啓氏(pp.233-252)は、マウスモデルの解析を中心とした脊髄小脳変性症6型の病態解明と題して、Cav2.1電位依存性カルシウムチャネル遺伝子(CACNA1A)内のポリグルタミン(PolyQ)をコードするCAGリピート配列の異常伸長を原因とする神経変性疾患で、いわゆるPolyQ病のひとつである脊髄小脳変性症6型(spinocerebellar ataxia type 6:SCA6、その患者脳では小脳プルキンエ細胞の選択的な変性が認められ、細胞質内のCav2.1陽性の凝集体形成が特徴的である)SCA6病態の解明と治療法の開発を目指して著者等が行ってきた病態モデル解析の成果を紹介するとともに今後の課題について概説している。
 
 以上のように、今回の総説は、分子・細胞、発生・発達、システムとしての神経回路・行動、脳疾患にわたる脳科学の広い分野をオーバーラップしながら、それぞれ新しい方向性を紹介するもので、日本の脳科学研究の広がりと深さ、そして先進性を見事に反映したものとなっている。それぞれの著者のご尽力に感謝したい。このブレインサイエンスレビューにみられるように、脳科学は、多様でありまた新しい展開はその多様性のなかから生まれるといってよい。脳科学の支援体制は、偏りのある限られた分野のプロジェクトだけでなく、全体を見渡し、多様な研究を支える幅の広いものであるべきであると痛感する。