ブレインサイエンス・レビュー2014
はじめに

廣川 信隆
(公財)ブレインサイエンス振興財団 理事長

脳研究は新たな時代を迎えようとしている。米国では、平成25年4月2日にオバマ大統領がブレイン・イニシアテイブ(Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies;BRAIN)を発表、またEUでは、平成25年1月、EUフラッグシッププロジェクトにEUヒューマン・ブレイン・プロジェクトが採択され、10年計画でそれぞれ総額1,000億円から1,500億円の巨費が投じられることが決まり、すでに走り始めている。そのようななかで、日本も第3極として脳科学の国際的な発展にどう貢献していくかが問われている。
脳科学は、大きく分けて、?ニューロン、グリアの分子・細胞レベルの研究、?脳の発生・発達の研究、?システムとしての神経回路と行動レベルの研究、?脳神経疾患、の研究に分かれていた。しかし現在この垣根は、ますます低くなり、これらを縦断するような研究が発展してきている。今回も塚原仲晃記念賞のお二人をはじめ、研究助成の受賞者の方々の総説、いずれもがきわめて読みごたえのあるものである。その内容を概説すると以下のごとくである。

1) 上田泰己氏「哺乳類概日時計を駆動する2つの発振原理」(pp.15-38)
生理現象(睡眠・覚せいサイクル)に深くかかわる概日時計の2つの設計原理、?遺伝子の転写翻訳ネットワークに基づくもので、転写因子の負のフィードバック制御によるものと、?蛋白質の可逆的な翻訳後修飾によるものの2つの発振原理の理解の現状を著者らの研究を中心に紹介している。
2) 笹井芳樹氏「神経系組織のパターン形成に見る自己組織化:創発生物学への挑戦」(pp.99-112)
今後、ライフサイエンスは、細胞定量計測、情報・数理科学の複雑システムへの応用、そして次世代計算機の計算資源等を新たな武器として手に入れつつ、システム科学的な生命現象の理解を目指した新局面を迎えつつあり、階層性を超えた理解、時系列予測、時空間の発展をする系の設計などがカギとなり、新たなチャレンジに取り組む必要があるだろうとの考えのもとに、単なる要素還元論とも構成論とも一線を画す(生命動態のシステム制御のツボ)をあぶりだす研究に挑むための多細胞社会の動態の原理研究を紹介している。
3) 豊田博紀氏「顎口腔顔面運動を制御する漏洩K+チャネルの発現様式」(pp.187-204)
イオンチャネルについては、制御様式より、電位依存性、リガンド感受性、機械刺激受容性、漏洩性、イオン選択性より、Na+、K+、Ca2+、Cl−、チャネル等に分類され、受容体は、リガンドや機能に応じて代謝型受容体、イオンチャネル型受容体、細胞内受容体に分類され、多種多様なイオンチャネルや受容体の分子実体が明らかとなってきているが、そのなかで顎口腔機能の発現にかかる漏洩K+チャネル(TASK1およびTASK3チャネル)の役割について紹介している。
4) 松尾亮太氏「ニューロンにおけるDNAの増幅」(pp.251-266)
ニューロンのゲノムは、父母由来のゲノムから構成され、原則的に2倍体の核を持つが、アメフラシ、ナメクジ等、軟体動物腹足類の脳には、核内DNAが異常に多く含まれ、超巨大な細胞体を持つニューロンが多数存在する。ゲノムのどの部分が増殖しているのか、ニューロンが何を感知してゲノムDNAの増幅につなげているのか、著者らがこの数年ナメクジを用いて行ってきた、ニューロンのゲノムDNA増幅の様式、機構に関する研究を中心に紹介している。
5) 竹居浩太郎氏「神経再生促進物質LOTUSの生理機能解析」(pp.149-164)
神経回路形成を担う機能分子の探索を目的とし、筆者らは、光照射不活性化法を利用した機能的スクリーニング法を開発し、それを嗅覚(Lateral olfactory tract;LOT)の形成に関与する機能分子の探索に適用し、新しい機能分子LOT usher substance(LOTUS)を発見した。LOTUSは、中枢神経系の再生を阻む主要因と考えられているNogo受容体と相互作用し、Nogo受容体の機能を抑制する拮抗作用を示した。このLotusによる新しい神経回路形成機構について紹介している。
6) 柿澤 昌氏「非酵素的翻訳後修飾による脳機能制御機構」(pp.57-78)
三つ子の魂の記銘や維持、記憶・学習等の細胞・回路レベルでの基盤として、活動依存的な脳の可塑的変化(可塑性)および形態・機能の維持機構(恒常性)が注目されている。リン酸化・脱リン酸化やユビキチン化等に代表される「酵素的」な翻訳後修飾、シナップス可塑性や細胞生存・細胞死への関与を示す知見が蓄積されているが、一方、活性酸素種による酸化修飾に代表される「非酵素的」翻訳後修飾は、主に生理的役割よりも、恒常性の破綻、神経病態との関連から研究が進められてきた。筆者らは、ガス性シグナルの一種である一酸化窒素(nitric oxide;NO)による非酵素的な翻訳後修飾が神経細胞内のカルシウム濃度の上昇およびシナップスの可塑的変化といった脳の生理的な機能に関与することを明らかにしてきた基盤に立ち、NOによるS-ニトロシル化修飾に焦点を当て、非酵素的翻訳後修飾による脳機能制御機構について解説している。
7) 田中真樹氏「時間情報処理における大脳小脳連関の役割」(pp.165-186)
脳機能画像研究や、神経心理学研究によって時間の情報処理に何らかのかたちで関与する脳部位のリストはできあがった感がある。しかし、脳各部位でどのような情報変換がなされているか、また大脳?大脳基底核、あるいは大脳?小脳ループといった大域的なネットワークによる処理が状況に応じてどう切り替わり、使い分けられているか、ほとんど明らかでない。脳のどのような神経活動によって時間が符号化されているのか概観し、現在、著者らが取り組んでいる大脳小脳連関によるタイミング予測の神経機構について紹介している。
8) 宇賀貴紀氏「柔軟な判断の神経基盤」(pp.39-56)
感覚情報から判断が形成されるまでの神経回路がよく研究されている2つの知覚判断課題(運動方向弁別課題と奥行き弁別課題)を組み合わせたタスクスイッチ課題を用いて、柔軟な判断の切り替えにかかる神経回路に迫っている。運動方向弁別および奥行き弁別における感覚情報表現は、大脳皮質MT野に存在する。一方、大脳皮質LIP野には、MT 野の情報を蓄積(時間積分)して判断を形成することに対応したニューロン活動の存在が知られている。これに関連して、タスクスイッチ課題を行う際にMT野?LIP野の神経回路がどのようにスイッチするかをサルを用いて検証した結果を論じている。
9) 鳴島 円氏「感覚神経系における特徴抽出機構の発達」(pp.205-231)
大脳皮質感覚野には、外界からの刺激のさまざまな特徴を抽出して応答するように、機能的に分化したニューロン群が存在し、外部環境を知覚している。このような特徴抽出機構が感覚系のどのレベルで形成されるのか、また発達期にどのように獲得され、特に生育環境要因によって影響を受けるのか否かは、神経科学における興味深い課題のひとつである。本稿では、マウス大脳皮質視覚野、およびげっ歯類において高度に発達した感覚系であるヒゲ由来の体性感覚野について、方位選択性や方向選択性等の特徴抽出機構の神経基盤と発達過程について紹介している。
10) 松尾直毅氏「記憶痕跡の可視化と操作より探る記憶情報の脳内表現」(pp.233-250)
記憶はどこで、どのようなかたちで表現されているのか? という本質的な疑問にこたえるため著者らがげっ歯類で行っている最近の研究を、?記憶痕跡、?記憶痕跡細胞の可視化、?記憶痕跡細胞の活動操作、?シナップスにおける記憶痕跡、?記憶痕跡の変化、の項目について紹介している。動物の特定の行動の神経活動の発火パターンを大量かつ同時に観測・解析することにより、記憶学習を含む高次脳機能の仕組みの全体像を理解するための飛躍的進歩が生まれることを期待している。
11) 櫻井 武氏「社会性行動を担う遺伝子ネットワークの同定」(pp.79-97)
他の個体(あるいは社会性刺激)に反応して起こす行動が、社会性行動である。ヒトの場合、社会性行動の異常はさまざまな精神疾患にみられる。自閉症では、社会性行動の異常がみられ、統合失調症やうつなどでも社会からの引きこもりや、社会への適応障害などがみられる。この章では、著者は、社会性行動を支える神経回路の形成のメカニズムの理解に向けて、ヒトの自閉症や発達障害の遺伝学的知見に基づいたマウスモデルを利用した著者らの試みについて論じている。
12) 高橋英彦氏「分子神経イメージングによる神経経済学の発展」
(pp.113-128)
人間の行動は、必ずしも“合理的”ではなく、時に期待値を計算すると不利な宝くじを購入したり、寄付や協力行為を行ったりする。認知神経科学と経済学とが融合したのが神経経済学といえる。これまでのfMRIを用いた神経経済学は、“非合理”あるいは、“情動的”な意思決定の認知神経科学的なメカニズムを明らかにしてきた。次の段階としては、この過程に報酬系と呼ばれるドーパミンなどの神経伝達物質がどのようにかかわっているかを明らかにする必要がある。この観点に立って、本章では、著者らのこれまでの分子イメージングによる神経経済学研究の成果を中心に紹介している。
13) 詫間 浩氏「筋委縮性側索硬化症治療に向けた新規モデル開発とRNA 関連因子」(pp.129-148)
筋委縮性側索硬化症、なかでも2006年に荒井らにより発見されたTDP-43(TAR DNA-binding protein 43kDa)は、孤発例にも遺伝子変異が認められること、RNA/DNA 結合能を有していることなどから、大きなインパクトをもたらした。しかし運動ニューロン死機序は不明である。本章では、孤発性ALSについて、以前から著者らが提唱している運動ニューロン死メカニズムであるRNA editingと、TDP-43など新規関連遺伝子の関係および新たに開発したin vivoモデル系について紹介している。
14) 柳澤琢史氏「脳磁計による神経義手のALS患者への適応」(pp.267-286)
著者らは、リアルタイム脳磁計を用いてBMI義手を操作するシステムを開発し、非侵襲的に重度麻痺患者が、BMIを用いた場合の脳信号計測および、BMI操作に習熟した際の信号の変化について検討し、患者に硬膜下電極を一時留置し、皮質脳波BMIの有用性・安全性を検証する臨床研究を開始した。この運動麻痺に伴う皮質脳波変化、脳磁図および皮質脳波によるBMIをALS患者に適応した臨床研究について紹介している。

以上のように、今回の総説は、分子・細胞、発生・発達、システムとしての神経回路・行動、脳疾患にわたる脳科学の広い分野をオーバーラップしながら、それぞれ特徴的にかつ新しい方向性を紹介するもので、日本の脳科学研究の広がりと深さそして先進性を見事に反映したものとなっている。各々の著者のご尽力に感謝したい。